“収穫”だけじゃなく、“種蒔き”が必要なんだ

政治家のパフォーマンスにつぶされた「私のしごと館」

森永卓郎さんが「私のしごと館」の廃止について一言?言っている。

わたしは、ほかの無駄をたくさん見ている。公益法人天下りした元官僚が、ほとんど何もしないで経費を年間1億円使っている無駄にくらべたら、「私のしごと館」の6億円の無駄はずっと意味があるのではないか。いや、決してこれは無駄ではないのだ。日本の将来に向けての投資であると考えてはいかがだろうか。

このコラムを読んで、少し反省。
以前、ある人に聞いたお話。

今の経済、社会は目の前の収穫のことしか見ていない。自分たちのような人間(60歳を超えている方です)は、次の世代が食っていけるような「種蒔き」をしなければいけない。種蒔きをしなければ収穫なんかできないから。

というような話を聞いた。
こういう話を聞いていてなお、「私のしごと館」に関する報道を見たとき、単純な反応で「あぁ、もったいないなー」と思ったんだ。

つまり、今、本当に今、それが金になるかならないか、目に見える形で効果が出るか出ないか、そこにばかり注目しすぎていて、目に見える形で効果がなければすぐに「無駄」、「もったいない」と切り捨てている。

教育 ひとへの投資

人の教育ということについては、本当に効果出てくるのは10年、20年という長期的なスパンで見なければいけないものだろう。
そうなると、利益を上げ、会社として存続していくことがなによりも大事な民間事業者側で教育していくというシステムはなかなか難しい。*1だからこそ、公的機関が公益的目的として、将来の担い手育成ということで教育に力を入れていかなければならない。そうであればこそ、国として政府として自国の子供たちをどう教育していくか、そこに一本、柱がなければ効果が目に見えにくい「教育」分野の予算はどんどんカットされるんだろうね。
もう少し言えば、医療費の負担も増えているので高齢者の医療に関しても「無駄」だと切り捨てるような風潮が出てくるんじゃないだろうか。「それはない」と言い切れるんだろうか。

メディアも国民も、無駄遣いという言葉にあまりにも敏感になりすぎて、バランスを崩してしまっているように見える。それをいったら、利益を出さないものは何もかも無駄ということになってしまう。

これは本当にそう感じる。中山間地域というところに関しても、同じことが言える。


あ、でも民間だとキッザニアがあるんだ。。。
住み分けというか、「私のしごと館」はこのキッザニアとの違いをどう出してるんだろう。

*1:10年近く山のものとも海のものとも分からない“ひと”に給料を支払い続けることはできないでしょう